古志 重信(こし しげのぶ)は、出雲・備後国の戦国武将。
生涯
古志氏の祖は、出雲守護佐々木泰清の第九子で、出雲国神門郡の地頭佐々木義信である。鎌倉時代、出雲・隠岐の守護は佐々木義清の子孫が受け継ぎ、これは南北朝時代初期の塩冶高貞まで続いた。義清の子が泰清で、古志氏は出雲佐々木氏の一族である。
重信は「出雲佐々木古志系図」によると、将軍足利義昭の近習として若年にもかかわらず六条合戦で1日に七つの首を上げた。
尼子氏に属していた古志重信は永禄年中は毛利氏に降ったが尼子再興軍が挙兵した時は再興軍の中核にいた。尼子再興軍では元亀元年(1570年)に土倉城を守り、吉川元春が攻めたが守りが固く落とすことができなかった。周辺の尼子方の城は次々と落ちて土倉城が孤立したとき、姻戚の出雲大社両国造から降伏を勧められやむを得ず毛利に降った。
古志重信には女子が数人いたが千家宮内室 北島貞孝室、牛尾氏室へと嫁いでいる。また古志氏は代々千家・北島・小野・藤間など出雲の名流と姻戚関係を結んでいた。これは古志家の勢力を維持するのには必要不可欠であった。
天正六年(1578)に織田信長による中国攻めで毛利方として但馬国で戦と調略に尽力していた。調略の末に織田方の荒木村重の寝返りを成功させた。天正八年(1580)時点でも但馬国で羽柴秀吉との戦を続けていたが但馬国を制圧された。翌年には本領の出雲に帰国している。
信長の死後、毛利氏が豊臣政権に降り古志氏は「文禄の役」に際して毛利輝元に従って出陣、渡海した。慶長5年(1600年)の「関ヶ原の戦い」には毛利氏に従って西軍となり、戦後毛利氏が防長に削封されたとき、御調郡で姓を変えて帰農したとされていてこれ以降は世に名を出してない。
参考文献
福山市史編纂会 編纂「福山市史 上」(国書刊行会 1983年)
古志史探会、長谷川博史 編纂「出雲古志氏とその性格 古志の歴史Ⅱ」(出雲市古志公民館 1999年)




