頴娃城(えいじょう)は、鹿児島県南九州市頴娃町郡字城内にあった日本の城。鹿児島県の指定史跡文化財に指定されている。

沿革

跡指宿と開聞岳の間にある。標高230メートル付近のシラス台地上に構築された。現在も城内(そない)、上城山(かみそやま)、下城山(しもそやま)、高城(たかじょう)などの地名を頴娃城の跡に残している。

この頴娃城郭造年代はあったされ、最初の城主一族は「伴姓頴娃氏」と呼ばれる一族であった。なお、その前に頴娃地区に存在した一族、「平姓頴娃氏」とは別のものである。

この土地を訪問した人、それが日本に滞在していたヨーロッパに伝わることとなり、頴娃城となったと考えられる。

また、江戸時代の「三国名勝図絵」に、7代頴娃久虎の代に5層の天守閣が築かれた、との記録が残っているが、実際の発掘調査では櫓台こそ出土したものの、5層の天守閣跡とみられる遺構はついに発掘されず、実際は存在しなかったと考えられるにいたっている。

八代領主のころ、頴娃氏の手から離れ、廃城となった頴娃城は、直轄支配するにあたって武家屋敷群が整備され、今でも頴娃町郡地区には残されている。その時の武家屋敷の石垣などの遺構が見て取れ、往時の遺構を今に伝えている。

主な曲輪

  • 本丸(城内で最も南)
  • 二の曲輪(本丸の北側)
  • 三の曲輪(農道により分断された本丸の一部と考えられる)
  • 四の曲輪(三の曲輪の北側)
  • 桝形(西の丸)
  • 西の丸(四の曲輪の西側)
  • 出丸(西の丸付近)

主な出土品

  • 天目茶碗(美濃製、もしくは唐物)
  • 染付茶碗(唐物)
  • 白磁(唐物)
  • 青磁(唐物)
  • 洪武通宝

年表

  • 1394年(応永1年):平性頴娃氏が島津家に滅ぼされる
  • 1418年(応永25年):平成頴娃氏の分家・小牧氏滅亡
  • 1420年(応永27年):肝付兼正 頴娃、指宿、山川の領主になる
  • 応永年間:頴娃城築城始まる
  • 1471年(文明3年):頴娃兼正菩提寺・大通寺を創建
  • 1533年(天文2年):4代領主兼洪指宿の地頭に任命される
  • 1546年(天文15年):ポルトガル人商人・ジョルジ・アルヴァレスが頴娃城と思われる城郭を訪問
  • 1554年(天文23年):6代頴娃兼堅 島津貴久と同盟を結ぶ
  • 天正年間:7代頴娃久虎 島津氏と九州各地で共に戦う
  • 1587年(天正15年):久虎 頴娃城を改築
  • 1588年(天正16年):8代 頴娃久音谷山に移される
  • 1604年(慶長9年):島津氏による地頭制度の開始
  • 1615年(元和元年):一国一城令、廃城に

沔城,沔城镇(第5页)_大山谷图库

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