虞 聳(ぐ しょう、生没年不詳)は、中国三国時代の呉・西晋の政治家。字は世龍。揚州会稽郡余姚県の人。父は虞翻。兄弟は虞汜・虞忠・虞昺ら。
生涯
虞翻の11人の子のうち、6番目に当たる。淡泊で物事に執着しない性格で、行動は礼にかなっていた。
呉の時代には、清官を歴任し、越騎校尉から昇進を重ねて、廷尉となった。呉の滅亡後には晋に仕えて河間国相を務めた。河間王司馬顒はかねてより虞聳の名を聞き知っていたため、虞聳を敬い厚遇した。
虞聳は有能な人物を推挙する際、まだ名が知られておらず、後ろ盾のないような家柄の者を対象とした。彼のやり方に虞聳の兄の友人の王岐が異を唱え、高士というのは必ず群を抜いた才能を示すものだから、有能な人物が無名であるはずがないと主張した。
これを聞いた虞聳は、族子の虞察に宛てた手紙の中でこう述べた。 「現在の人材登用は、田舎にあってまだ人々から認められていない者を招いたり、数多くの中から才能のある者を捜すことがない。褒めたたえるのはすでによい評価を受けている者ばかりで、けなすのもすでに悪い評価を受けている者ばかりだ。このようなありさまだから、いつも私はため息をつくことになるのだ。」
また虞聳は、人々が葬儀や祭祀を盛大に執り行う風潮を嫌っていた。そこで弟の虞昺が死去したとき、霊前に少牢を捧げ、会葬者にも酒とご飯を出すだけにとどめた。以後、彼の一族はみなこのやり方に従ったという。
穹天論
虞聳は天文学者でもあり、『穹天論』を唱えている。
「天の形をしたドームは鶏のように膨らみ、幕を開けると四海に囲まれ、空気の上に浮かんでいる。 例えば、水を覆って水を抑制するが、水が無い場合は、ガスがそれに満たされる。 太陽は極の周りにあり、地球に出入りすることなく、西に行くことなく東に戻る。天は地球の30度下にあり、極の傾斜は地球の北30度ずれていて、人々は是の10万里以上南に存在し、天と地の耳の下に居ることになる。 黄道帯は毎日極の周りを移動し、北は黄道150度、南は黄道67度に及ぶ。 二至(夏至・冬至)の長短さもこれによって導き出される」。
家系図
参考文献
- 『晋書』
- 陳寿、裴松之注『正史 三国志』、井波律子・今鷹真・小南一郎 訳・解説(ちくま学芸文庫全8巻、1992 - 93年)、※呉書は6・7・8巻、小南一郎訳。
脚注




